ドラッグに溺れ入退院を繰り返す。それでも続けた音楽活動
ウェザーリポートに加入した頃、ジャコはとてもクリーンな環境の中にあった。アルコールも飲まずに音楽に打ち込む青年だったが、ウェザー・リポートの活動と、ジョニ・ミッチェルのほか、多数のセッションへの参加で多忙を極めた70年代後半から徐々にドラッグに染まっていった。
ジャコは1981年12月1日の誕生日に故郷のフォート・ローダーデイルでライブを行う。このライブはセカンド・アルバム『ワード・オブ・マウス』のコンセプトを引き継ぐジャコのビッグ・バンドの旗揚げ公演となった。このライブは1995年に『バースデー・コンサート』としてリリースされている。
1982年2月、ジャコはこのバンド活動を本格化させるため、ピーター・アースキンとともにウェザー・リポートを脱退する。
The Birthday Concert (Warner Bros.)
この年、モントリオール・ジャズ祭にはランディブレッカー(tp)、ボブ・ミンツァー(ts)、オセロ・モリノウ(steel-ds)、ピーター・アースキン(ds)、ドン・アライアス(per)を従えた7人編成のバンドでステージに上がった。このときジャコは顔にウォー・ペイントを施し、目が虚ろな状態で演奏している。
Live In Montreal (Vap)
以降小編成となったワード・オブ・マウスは、固定メンバーのない形で活動を続けるが、ジャコの中毒症状は悪化の一途をたどる。二枚のソロアルバム、ウェザー・リポートでの活躍により、スターダムにのし上がったジャコだが、自信過剰な性格とは裏腹に、周囲が作り上げ、一人歩きする“ベースの天才、ジャコ・パストリアス”というものに対して、プレッシャーを感じていたとも言われている。
ウェザー・リポート脱退以降ジャコのドラック中毒は悪化の一途を辿り、ついには音楽業界の誰もが背を向ける存在となっていった。ドラッグ欲しさにベースを売ってしまうほど貧困となり一時ホームレス化していた。好きだったバスケットボールコートで一日を過ごすことも多かったが演奏活動をしなかったわけではない。
マイク・スターンやハイラム・ブロック、ケンウッド・デナードらとの「ライヴ・イン・ニューヨーク」シリーズや、ビレリ・ラグレーンらとのヨーロッパ・ツアー・ライヴなどをリリースしている。これらはジャコの死後、小分けして販売されており、一部は粗悪なブートレグとして流通している。
Live in New York City, Vol.1: Punk Jazz (Big World)
1984年以降に親交を深めたのはドラマーのブライアン・メルビンであり、後にジャコの晩年のレコーディングに深く関わることとなった。メルビンは自身のジャズ・ユニット「ナイトフード」にジャコを招き入れ、いくつかのレコーディングを残している。中でも異色なのはピアノトリオ形態でジャズ・スタンダードばかりを収録したアルバム『スタンダード・ゾーン』。このアルバムはジャコのスタジオ録音では最後のものといわれている。
The Brian Melvin Trio Featuring Jaco Pastorius And Jon Davis (Global Pacific)
1987年9月11日故郷フロリダのフオート・ローダーデイルに来ていたサンタナのライブを見ていたジャコは、飛び入りしようとしてトラブルを起こす。サンタナになだめられつつも会場を出て行ったジャコは彷徨う。失意のうちにたどり着いたナイトクラブ「ミッドナイト・ボトルクラブ」で悲劇は起こった。日付が変わった深夜、このクラブに入店しようとして用心棒と口論の末、乱闘となり殴打され、意識不明の重体となった。
しばらく昏睡状態が続いたが、9月21日に家族の同意のもと、人工呼吸器が外され35年の生涯を閉じた。この頃のジャコについては、日本でもジャズ誌にその健在ぶりを掲載されることがあったが、突然の訃報に世界が驚いたのは言うまでもない。